大崎の0美術館で開かれていた「光をつかむ-素材としての【光】の現れ」展へ行きました。(会期1997年11月21日〜12月23日)
電球、信号機、発光ダイオード、裸火、太陽光・・・8名の作家達の使う、素材としての【光】も色々であり、また、作品を通して訴えたいテーマ、見つめているものも、色々であったのですが、興味深い展覧会でした。

私は、美術評論をする者ではないので、すっかり主観的な感想になりますが、【光】には、眩惑的な魅力があるということですね。

作家にとって、この素材が、例え、クールな思索的なテーマを表現をするためのものであっても、光は、宗教的高揚感のような感覚や、うつろい易い記憶を探るような郷愁感や、生命を見ているような憧れを人間に抱かせずにはおかない。それが、コンクリートの上の蛍光管であっても、そして、裸火は最も強烈。
そんな【光】に、個々の作家がどう対峙しているのか、それが、この展覧会の興味深い点であったように思います。

私も素材に光を多く使う作家ですので(最近、新作を創っていないな・・・)、この問題を自分ももっと深く掘り下げるべきなのです。でも今は「私は【光】が好きだ」ということしか、判っていないというのが正直なところです。分析すれば節操が生まれるはずなのに、今は節操無し。



というところで、この展覧会から、作間敏宏氏の作品を紹介します。タイトル『治癒』

無造作に並べられたタンスなどの古い家具の中に、同じ形をした電球が無数に入っている。その電球は皆、鈍い発光しかしないようになっている。

「僕はこれを視ている」ということだけを伝えるための作品。
生活の日常から切り取られてきた現場を、ほんの少し「異化」するだけで、見る人に、生活の日常の奥行きについて「戯れ感じ考える」空間と時間を与えるインスタレーション。あえて、光にはこだわっていない。
そう、作間氏は紹介しています。
彼は、この「治癒」シリーズを、ある時はアパートのキッチンに無造作に電球を置く、ある時は農家のビニールハウスの地面を電球で埋め尽くすなどの方法で展開してきています。

私には、とても面白い作品でした。作間氏は、年に何度か発表されているので、興味を持った方は、ぜひご覧になって下さい。



私自身も、多分、『生活の日常の奥行きについて「戯れ感じ考える」空間と時間を与えるインスタレーション』を創っているのだと思うのです。

3年前より、『暮らしの中の漂流』というテーマで、自分の中になんだか沸き起こるイメージをインスタレーションとしています。ただし、自身を分析していない節操無しなので、作品は作間氏のように研ぎ澄まされてはいないです。

大山麻里『暮らしの中の漂流』 内部から発光するタンス、ひきだしの段により違う世界がある。周りの壁に微生物のような光。
鳥かごの中に入った電球、鳥かご中では生活用品が回っていて、周りに影が映る。8mmの映像が壁に投影されている



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